みどりの緑陰日記

香港で始めたプレイルームどんぐりから数えて35年、子ども達に絵本や児童書を手渡し続けてきました。絵本や児童書のこと、文庫活動のことなどを綴っています♪ noteも書いています(https://note.com/child_books/)

2016年01月

きくちちきさんライブペインティング@「スープのたね」

1月15日(金) 18:30〜 @神保町 LAB & Kitchen

スープラボに過去2回参加させていただいている薫さんのイベントに参加してきました♪

それは「スープのたね」というイベント。こちらに薫さんのNOTEがあるので、詳しくは→こちら

 2014年にスロヴァキア、ブラティスラヴァ世界絵本原画展で金のりんご賞をとったきくちちきさんのライブペインティングと薫さんのスープイベントを合体させたもの。

仕事終了が18時半のため、この日は終わり次第神保町へ。

20160115スープのたね5ちきさんのライブペイントは始まっていました。

40人位いたでしょうか?参加者の中にしばらく逢っていなかった懐かしい大人絵本会メンバーも・・・再会を喜びながらも、みんなでちきさんが絵を描き進めるのを見守りです。

←会場に駆けつけた時は、大きな紙に薄くパステル調の色彩がのせられていました。20160115スープのたね6


少しずつ色が重ねられていきます。まるで春の野のような色合いです。みんなで、これはお料理を描いているのか・・・なにかなぁと話していました。

20160115スープのたね7さらに色が足されていきます。

色を使って、少しずつ形も・・・あれはうさぎ?くま?いや、なにかお花かしら・・・とみんな好き勝手に言いながら、ちきさんが今まさに生みだそうとしている絵がどのように完成に向かって行くのかワクワクしながら見ていました。

20160115スープのたね8→ここまでで、なんとなく塊が見えて来ましたが・・・まだどんな絵になるか全然予想もついていませんでした。



20160115スープのたね10ちきさん、すごく大きな絵なので、あっちに行ったり、こっちに行ったり・・・

以前、茅野の今井書店で見たライブペインティングや、本と雑貨のギャラリーウレシカでのライブペインティングも壁に貼られた紙に描いていました。

今回は床に敷いた紙の上なので、私たちも座る位置によって見えてくる景色が違っているし、ちきさん自身も全体像を確認しようとすると、少し離れて高い位置から見下ろす必要があるので、いつもよりハードルが高いかな・・・ちきさん、時々薫さんのインタ20160115スープのたね15ビューを受けながらも、描き進めていきます。


そして、いよいよ輪郭が現れて来ます・・・それまでパステル調の色彩だったところへ濃い色が足されていき・・・・
20160115スープのたね16
動物たちが生まれて行きます。

予想通りになったところも、意外な動物になったところも!20160115スープのたね17



20160115スープのたね20賑やかな動物たちの声が聞こえて来そう・・・何もなかったところに、こんなにたくさんの動物たちが生まれ出て、それだけでも感動です。

そして動物たちの中心にお鍋の絵が・・・20160115スープのたね21


20160115スープのたね22
20160115スープのたね23







最後に左隅にサインが入って・・・・完成。


その間に、薫さんのスープ、ガルピュールが振る舞われました。このスープのレシピについても、薫さんの20160115スープのたね19NOTE→こちらをどうぞ! 


20160115スープのたね220160115スープのたね






イベント終了後に、ちきさん、薫さんを囲んで絵本クラスタで記念撮影!

20160115スープのたね1120160115スープのたね12
会場には、ちきさんの絵本と共に、薫さんがtwitter上で呼びかけた「美味しい食べ物」の出てくる絵本たちが展示されていました。

スープと絵本のコラボレーション。 とても素敵な試みでした。

まど・みちおのうちゅう展へ


 1月11日(月)

今回の旅のきっかけとなった「まど・みちおのうちゅう」展を見るために、宇部市からバスと新幹線を乗り継いで開館時間に間に合うように周南市美術博物館へ、朝一で移動しました。20160111周南美術博物館2

20160111まどみちお展徳山駅からの道のりもぽかぽか陽気。1月であることを忘れてしまうようでした。

「まど・みちおのうちゅう」展図録によると・・・
「『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『ふしぎなポケット』などだれもが口ずさんだことのあるこれらの童謡を生みだしたのが詩人のまど・みちおです。
 2014年2月28日、104歳でこの世を去ったまどは、生涯にわたって詩を書きつづけ、その作品数は2000を超えています。
 まど・みちおの作品の魅力は、草花や虫などのちいさなものにまでもむけられたあたたかなまなざし、すべてのものがそこにあることだけ、生かされていることだけですばらしいのだという存在のよろこびをうたっていることです。
 この展覧会では、まど・みちおの詩人としての足跡をたどるとともに、50代はじめに描いた絵画作品を通して、彼独特の宇宙観を紹介します。」

そう、ここに紹介されているまどさんのタブローの60作品は、50代の一時期に集中して描かれたもの。

Eテレで放送された日曜美術館の「まど・みちおの絵の秘密」によると、3年半の間に集中して約100作品を残したというのですが、それらはずっと公開されることがなかったのだそう。

20160111まどみちお展3この番組を見たことによって、どうしても実物を見たいと思ったのが、今回の旅のきっかけ。

展示では、絵画作品だけではなく、幼年期、そして台湾で過ごした戦前(北原白秋に認められて童謡詩人を目指していた)、そして戦争体験、戦後に「コドモノクニ」や「チャイルドブック」の編集者として過ごした時代など、その生涯の足跡を辿ることが出来ました。

そして、編集者の仕事をやめてフリーになった後に、憑き物に取りつかれたように抽象画を描いたいたのだとい20160111まどみちお展2う・・・展示にはその絵が描かれた日付が付され、その順番に並べられていました。それは1961年(昭和36年)5月10日に始まって、1964年(昭和39年)9月まで続いていました。それ以外にも、入り口のオブジェにもなっていた「ぞうさん」の絵は1977年7月の作品がいくつか。

それ以外にも描かれた年代のわからない習作のような作品もいくつかありました。

絵のほとんどが抽象画で、クレヨンと水彩、油性ペンなどが重ねて使われており、中には描いたものを削ったものや、切り抜いてコラージュしたものなど、いろいろな技法が使われていました。

絵の中にまどさんの執念のようなものも感じました。一心に描きながら、表現することについて逡巡した居たのだろうなとも感じました。

時には、少し突き放したような、ある時はぐぃ〜っと入り込んで情熱的、ある時は直線的で無機質、ある時は柔らかい色合い・・・と、その時々でいろんな方法を試みていることも見えて来ました。

 その時期、まどさんは芸術的な童謡を作ることを目指していたのに、当時のテレビ時代の訪れで童謡が商業的なものになっていくことへの疑問を感じていたようなのです。

「ツマラヌ童謡とはその歌詞が精神の高度の燃焼による所産とはいいがたい作、つまり詩ではない童謡のことです」ときっぱりと、商業主義的な童謡を切り捨て、憤慨していたとのこと。(図録『まど・みちおえてん』周南市美術博物館 2009より) それが、クレヨンで一心に描き塗り、それを引っかいてみたり、切り抜いたり・・・魂を一心に傾けた作品になっていったように思えました。

高度成長期の急激な子どもたちの生活を取り巻く変化、芸術に対する期待の変化へのまどさんなりの抵抗だったのでしょうか・・・絵を描きながら、ほんとうに大切なものは何なのか、究極を突き詰めようとしていたようにも感じました。

50歳過ぎてもそうやって迷いが起きたという事実。この時期を過ぎてからのまどさんの自由詩。その辺りを見比べてみて、この絵に打ち込むということが、まどさんの心をさらに高みへと導いていったのだろうなとも感じました。

年代順に並んだ作品の最後のほうに行くにつれて、暗く重い色彩から明るく柔らかい線になっていくのが印象的でした。

20160111まどみちお展4これらの作品は、東京からわざわざ足を運んで見るだけの価値がありました。テレビでみたもの以上に、まどさんがこの絵に向かって行ったエネルギーを、そのままその作品から受け取ることができました。20160111まどみちお展6
美術博物館のカフェでは、まど・みちお展を記念したカフェメニューがありました♪
 
午前中、たっぷりかけてまど・みちお展を見て、また歩いて20160111まどみちお展7徳山駅へ。そこから山陽本線に乗って下松へ。

大学時代のゼミの同級生と3年ぶりに再会しました。

車で迎えに来てもらって、近くのショッピングセンターへ。ここで積もる話を3時間。

同じセミ生の中で一番早く卒業と同時に結婚した彼女。田舎気質の残る町での子育て、その後に体調を崩して、しばらく同窓会にも顔を出せない時期がありましたが、元気になって3年前の同窓会で30年ぶりに再会。

それからまた3年。お互いにいろいろあったこれまでの日々を語り合って、あっという間でした。でも会っていっぱいお喋りできてよかった
16時過ぎに別れて、再び徳山に戻り、新幹線のぞみで東京へ。

生まれ育った町、小野田。結婚式を挙げた宇部。そして周南、下松。
すっかり変わってしまった山口の町々をめぐる旅・・・今年最初の旅から元気をもらったのでした。行ってよかった♪そう思いました。
 

センチメンタルジャーニー(2)

1月10日(日)20160110通学路

教会で両親を知る懐かしい人たちとの時間を過ごした後、子ども時代を過ごした町並みを歩いてみました。とくに小学校や、高校に通った道をたどってみました。

20160110稲荷町道路の両脇に個人商店が立ち並び、賑やかだった古い商店街は、まるでひっそりと眠ったかのよう。所々歯抜け状態で、幼馴染が住んでいた家も空地に・・・

この通り、昔は個人商店が軒を連ねていました。お菓子屋さん、八百屋さん、魚屋さん、寝具屋さん、カメラ屋さん、時計屋さん、電気屋さん・・・私が小学生時代は映画館もあったのですが・・・
なんにもない!空き地もいっぱい・・・

毎朝、高校に通うために使っていたJR小野田線の南中川駅も無人駅になっていて、20160110南中川電車の便もほんとうに少なくなっていました。(朝、7時台に2本、あとは6時台、9時台、13時台、16時台、17時台、18時台、19時台、21時台に1本ずつ・・・)これでは、学校に通うのも不便だなあ・・・どうして20160110南中川3いるんだろ?子どもたちって思ったら、バスの便が増えている模様(ホッ)

← ちょうど13時31分発小野田駅行きが、高架にまたがる南中川駅に停まっているのが見えました。


20160110南中川駅
← 南中川駅の駅舎 子ども時代は貨物列車も走っていて、駅員さんも常駐していたのに、今は無人駅。

20160110南中川駅から駅から見下ろす町並み・・・家々の向こうに見える小高い山は昔は里山で、子どもたちだけで冒険と称して登って、基地を作ったり、山菜取りに行ったりしていましたが・・・今は国道が走り、その斜面は住宅地に。

20160110小野田小学校← 母校の小野田小学校。建物は、建て替わってしまいましたが、うちから歩いて数分のこの小学校には、たくさんの思い出があります。
20160110めぐみ6



人も車の流れも、郊外に出来た大型店舗のほうへ流れてしまっていて、記憶にある町とすっかり変わってしまって浦島太郎状態でした。

20160110小野田図書館その後、私が嫁いだ後に移転して立派になった図書館を見学。そこから車で市内をあちこち走り回りました。連絡のつかなくなった高校時代に仲良しだった友人たちの家に20160110小野田図書館2も行ってみましたが、家が無くなっていたり、建て替わって別の人が住んでいたり・・・26年と言う月日の流れのなんと残酷なことかと愕然としました。



車を市の南端のほうへ走らせて、カフェ、ソル・ポ二エンテへ・・・ここは、今から15年くらい前に開発されたエリア。このレストランの設計は、日本を代表する建築家の隈研吾さんなのです。地元を代表する企業が経営しているのですが、現社長は高校の同級生。父親の跡を継いでしっかりとやってるんだなぁ。たしか、東京の大学を出て、武者修行をしてからU20160110ソルポニエンテターンしたとのこと。

このレストラン、周防灘に面して、対岸の関門海峡を遠く見渡すことができ、夕陽の素晴らしい場所としても有名です。(高校生の頃、この近所に友人が住んでいて、やっぱり夕陽を眺めに来ていましたが、その頃は何もない海辺でした)20160110きらら海岸





今はきららビーチ焼野とネーミングをして、おしゃれな海岸として遠くからもお客を集めている様子。眼前の海にはウィンドワーフィンをする人たちもいて、ここだけ別世界のようでした。20160110ソルポニエンテ6



それから市内で一番高い山、竜王山へ。ここから町を一望できるのです。学校の遠足で、友人たちと、そして当時付き合っていた人と、何度も何度も登ったり、ドライブで来た場所です。
20160110小野田市街地
小野田の市街地を見下ろしながら、ここで過ごした20年を思い出しました。
両親の愛情を受けて育ったこと。兄弟喧嘩。母の妹が長逗留していた時期の思い出。(叔母にいっぱい遊んでもらったこと)。友達と野山を駆け回って遊んだこと。はじめて自転車で遠出をして、友達からはぐれたこと。友達と喧嘩したこと。いじめにあったこと。いじめに加担したこと。恋をしたこと。大好きな人を待ち伏せしていたこと。初めて告白された日のこと。失恋したこと。友達と時間を忘れて語り合ったこと。友達と一緒に幼稚園に泊まり込んで、恋バナをしたり、肝試しをしたこと。受験勉強を友達と励まし合ってやったこと。初めての同窓会で酔っ払って醜態を晒したこと。楽しかった思い出も、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい思い出も、辛かった思い出も、時の流れの中の遥か彼方に押しやられ、その小さな破片だけが愛おしくキラキラと光って見えるだけ。

手繰り寄せようとしてもはっきりとは手元に戻せないのだけれど・・・ほんとうに微かな記憶の中で化学反応を起こして輝いて見える。

56年・・・という人生の時間を振り返って、後戻りのできない時間を、考えて圧倒されそうになりました。20160110宇部チャペルセンター

日が暮れる前に、隣町宇部市へ。まずは結婚式を挙げた松山町の宇部チャペルセンターへ。今は結婚式場として使われてないということなので、側道に車を停めて写真だけ撮りました。
20160111全日空ホテル前
30年前、夫と結婚した日に一泊した全日空ホテル・・・今はANAクラウンプリンスホテルへチェックイン。

この日、宇部市内では県外の大学に進学している新成人のために一日早く成人式が行われていたらしく、ホテル内のレストランは中学や高校の同窓会で予約がいっぱい。
夜景を見ながら食事をしようと思っていたのに・・・残念。

ということで、宇部新川駅あたりから銀天街のあたり、賑やかな通りだったはず、と外に出たのですが・・・なんと宇部新川駅前は暗くてひっそり。20160110宇部新川駅


20160110宇部市街地目抜き通りもひっそりとしていました。

1970年代から80年代の宇部市街は活況を呈しており、銀天街には休日ともなると人が溢れていました。おしゃれなブティックや雑貨屋さん、美味しいケーキが食べられる喫茶店もあったのに・・・今はシャッター通りに。(こんな画像も→寂しすぎる商店街

結局、食事をするところが見つからずに・・・コンビニでおでんを買ってきました^^;20160110夕食

宇部に全日空ホテルが出来たのは、今から32年前。当時の宇部は賑わっていて、お洒落なシティホテルが出来たのは当時はとても誇らしかったのです。

家族のお祝いに夜景の見えるレストランで食事をしたり・・・友達と最上階のバーで飲んだりと、バブル期に向かう80年代半ばのことが嘘のよう。

館内も、ビジネスホテルといった感じ。あの頃漂っていたラグジュアリー感はまったくなくなっていました。

20160111渡辺翁記念館翌朝、早起きをして渡辺翁記念会館と宇部新川駅、そして宇部銀天街を散歩してきました。

渡辺翁記念会館は、宇部興産を創業した渡辺祐策氏を記念して1937年(昭和12年)に竣工された建物。子ども時代は、友人のバレエの発表会を見に来たり、両親に連れられてクラシックやクリスマスのコンサートや、西南学院のグリークラブのコンサートを聞きに来たものでした。
また、高校時代にデビュー間もないオフコースのコンサートを初めて聞いたのも、ここでした。 20160111銀天街2

20160111銀天街銀天街は朝見るとまたなんともがらんとしていました。 

栄枯盛衰・・・すべてのものに寿命があり、年と共に劣化していくということは避けられないんだなぁと。

もちろん、そうなる前に何か手を打っておくということも考えられたのでしょうが・・・やはり時代の流れについて行けなかったのかもとも思います。

子ども時代に夢に描いていた、町の未来・・・
美しくも、ますます発展してバラ色に満ちている、そんな町の様子を思い描いていたのに、想像以上に全国チェーンの郊外型大型商業施設はその町独自の生業と風景をなぎ倒していくものなんだな・・・と、しみじみと感じた朝の散歩でした。

生まれ育った町を見に旅をしたことは、懐かしさと切なさを心に熾きのように残しました。
 

センチメンタルジャーニー (1)

1月10日(日)

早朝、まだ明けやらぬうちに家を出て、羽田へ向かいました。駅へ向かう道すがら、明けの明星とそれに寄り添う土星を見上げました。
20160110小野田行き
今回の目的地は、山口県山陽小野田市と宇部市。

きっかけは年末12月27日に再放送されたEテレの「日曜美術館」で、「まど・みちおの秘密の絵」を見たことでした。まどみちおさんの出身地である山口県周南市美術博物館で1月17日まで開催中の「まどみちおのうちゅう」展で、その絵を実際に見ることが出来ると知り、なんとか日帰りでも見に行けないかと思ったのです。20160110山陽小野田市

ただ、高齢の両親もいて、ぎりぎりまで決断できなかったのですが、年明けに両親の体調も良いことから、成人の日の連休に行ってこようと思い立ったのが、6日頃。当初は日帰り予定でしたが、どうせ山口県に足を延ばすのであれば、生まれ育った町を見てこよう、そして30年前に夫と結婚式を挙げた教会を見てこよう、そして結婚式当日に宿泊したホテルにも泊まってこよう・・・と考え、帰宅してからネットで飛行機の予約、レンタカーの予約、そしてホテルの予約を取りました。

私が生まれて育ったのは、山口県の瀬戸内海に面した「小野田セメント」で有名な小さな工場地帯の町。今は平成の大合併で山陽小野田市になっていますが、当時は小野田市でした。(ネットサーフィンをしていて、こんなサイトもみつけました→近代化遺産を巡る・山陽小野田市

今から26年前に、当時その町でキリスト教会牧師と教会付属幼稚園の園長をしていた父が病気になり、その療養のために急遽引退して岡山県に移り住みました。その時、私は結婚して長男、長女を育てながら夫の転勤で香港に住んでいたために、生まれ育った町を出て行く両親を見届けることもできず、また突然の辞任に教会関係者、幼稚園関係者、とくに園児の家族にも多大なご心配と迷惑をおかけしたということが、ずっと家族の中で心の棘となってきていました。

両親にとっては30年過ごした町。そこを離れて26年経つのに、未だにずっと「その後どうなっただろう」と気にかかってきたところでもありました。

18歳で大学進学で離れた後、大学院修了後2年間はまた戻って父の手伝いをしていたので、通算20年間住んでいた町です。その両親も92歳と89歳。私が今の様子を知らせることも、大切なのではないかと思ったのでした。

20160110羽田さて、朝8時発のJAL便で山口宇部空港へ順調なフライトで降り立ち、空港でレンタカーを借りて一路生まれた町の、育った教会へ。飛ばせば30分弱。日曜日の礼拝に間に合います。空港からの道は、住んでいた当時、何度も何度も車で走った道でしたが・・・まず宇部市内中心部を走っていて「え?」という違和感が・・・山陽小野田市に入ってからますますその感じが否めなくなりました。

同じ道を走っているのに、見えてくる風景があまりにも違っている。もちろん26年の年月が経っているので仕方がないことですが、予想をはるかに裏切って、町が衰退していっている・・・見えてくるのは日本国中どこへいってもあるような郊外型大型店と、駐車場ばかりが増えている・・・そんな歯抜けの町並みでした。

中心部は建物が更新されずに老朽化しており、その一方で自然豊かだった郊外にドーンとそびえる大型商業施設。唖然とするばかりでした。
20160110めぐみ前景
ところが、生まれ育った教会と幼稚園は、それとは真逆にタイムカプセルの中から出てきたかのように、26年前のまま・・・このギャップが地方の現実を見せつけているのでした。

とにかく懐かしく懐かしく・・・思いは複雑。それでも26年もの間、引き継ぎ、継続してくださっていた方々がいて、今も続いていることが奇跡のようでした。

その間に町の中心部は少子高齢化で、大きく変化し、見える景色はまったく違っていましたが、建物の中はそのままで・・・20160110小野田教会

日曜日の礼拝に出ましたが、牧師先生ご夫妻を含めて12名ほどのささやかな集まりでしたが、父の引退後も続いていたんだ・・・と、教壇もお花の台も、ピアノも、カーテンも、座布団も・・・私の子ども時代と変わってないまま。ほんとうに不思議な気分でした。

20160110めぐみ礼拝の後、幼稚園の園舎の中や、私たち家族が生活をしていた元牧師館(現在は幼稚園の倉庫)など、思い出の染みついている建物の隅々まで、案内していただきました。ここで、いろんなことがあったなぁ。幼い時のあの日々が、どっと蘇ってきて、ほんとうに切なくなりました。20160110めぐみ2
← 幼稚園ホール
                         幼稚園の図書室→

20160110めぐみ3
← 園庭 この園庭に面した牧師館で生まれたので、ここは自分ちの庭でもありました。面影の残っている部分も、変わってしまった部分もあって・・・
20160110めぐみ4
幼稚園の建物も58年前のもの・・・
その後増築した部分も築45年は経っているはず。
ほんとうに何もかもが懐かしい

20160110めぐみ5かつて、県道との境目にはポプラの木が4本とヒマラヤ杉が2本聳えていました。小さい時はそのポプラの木に登るのが大好きでした。そのポプラの木は、1999年9月に襲った台風による竜巻被害で、倒れてしまい切り倒されたとのこと。(こちらにも詳細な報告が・・・山口県の被害状況

この竜巻で、ご近所のお宅も随分被害を受けたとのこと・・・それであちこち歯抜け状態だったんですね・・・5キロにわたって被害が広がったとのこと。1999年って、シンガポールに転勤になった年で、このニュースにも気が付いていませんでした。(ネットでいろいろ調べると市内南部は高潮による浸水被害もあったのだとか・・・)

門柱脇のカイズカイブキが1本だけ、残っていました。この周囲にはぶどう棚もあったのですが、それも無くなっていました。

それから今は使われていない牧師館(今は幼稚園の倉庫になっています) 

20160110生家2←ここ、両親の寝室だったところ 

  →こっちは子ども部屋だったところ 20160110生家
    なんか今はいろんなものが詰め込まれているけれどこの部屋には思い出がいっぱい。兄弟げんかもしたし・・・受験勉強で遅くまで起きていたなあ・・・とか 

20160110生家3
←キッチンも・・・
 ここで家族が食事をして、いろんな会話が生まれて・・・

結婚して30年、この家に最後に帰ったのは父の病気がわかった26年前。

今、またこの場所に立てていることが、嘘のようで・・・でも「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったもので、今になってみれば両親が引退したことも、現在は東京で一緒に住んでいることも・・・一番よい道だったのだと思いました。 

生まれた町への望郷の念は、ずっとずっと26年つきまとってきました。 子ども時代が幸せだったとは決して言えないけれど、でも私がこの町で生まれて育ったということは、間違いのない事実であり、私の基礎を作ってくれた町。ここで出会った友達、先輩、先生たち・・・

ご近所の人たちとの思い出・・・いろんな思いが一気に押し寄せて来て、まさに「切なくて、切なくて」という気持ち1963年頃の小野田教会でした。

2016011053年前の私今年、もう一度前を向いて歩いていくために、子ども時代に過ごした町に戻ってみる・・・そこから始めようと思ったこの気持ちは間違っていなかったなと思いました。 
(教会の壁に貼ってあった53年前の写真に私もいました・・・) 

← 母と私・・・

今、こうしてブログに書いていて・・・幼い時のいろんな思い出が蘇ってきて、どれもが浄化されていっていると感じるのでした。 

2016年の始めに

2016年の年明け・・・穏やかなお天気でした。
20160101初日の出4
大晦日は長女と二人で、紅白を肴に飲み、ジャニーズのカウントダウンと、カウントダウンTVのSMAPとを立て続けに見て夜更かしをしたものの、初日の出が見たくて6時半に起きました。

自宅3階から東の空を・・・20160101初日の出3

この場所からは、遠くに見える都庁舎の間から初日の出を見ることが出来ます。昨年はインフルエンザで寝込んでいて・・・その前の2年ほどはLAで新年を迎えているので、 4年ぶりの自宅からの初日の出です。


初日の出が昇ってくるのを見ながら感じたのは、圧倒的な「希望」への想いでした。

2015年があまりにも過酷で壮絶な一年だったので・・・年末は精神的にも疲れ切って、「なんで生きてるんだろ・・・」って感じる日が多かったのですが・・・

どんなに大変なことが襲い掛かってきても、それでも夜は明ける。喪中でも・・・こうして新年が訪れるんだって・・・

そして同じことが、紛争地にも、被災地にも・・・どんな場所にも!

必ず夜の後に朝が来る。震災後、荒井良二さんが出版された『あさがきたのでまどをあけますよ』(偕成社 2011年)の作品の、意味が・・・頭ではなく、感覚ですとんとわかると感じた瞬間でした。20160101初日の出

 
私の味わった辛さ、悲しみも、世の常、多くの人が味わうもの。私が「辛い、過酷、壮絶」と感じている辛さ、悲しさも・・・歴史上、夥しい人々がそれを味わって乗り越えてきている・・・

戦火で家を焼け出され肉親と今生の別れをした人、国を追われている人々、震災や水害で住む家を失った人々の背負う苦しさ、辛さ、悲しみを思うと・・・もちろんその苦しさや悲しみは質が違うけれど、私だけが辛いわけではない

そして、そんな世界中の傷ついている人々の上にも必ず夜は明け、温かい陽ざしが届くんだ・・・って思った瞬間、圧倒的な希望が湧いて来たのでした。

2016年・・・前を向いて進んで行こうと思った元旦でした。
 
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